11/23に開催されたサッカーワールドカップの1次リーグ初戦で日本がドイツに勝利したことで世界中が驚いたが、それと共に日本のファンたちが試合後にスタンドのゴミ拾いをすることも世界のメディアが驚きと共に報道した。
ゴミ拾いは日本ではそう驚くべきことではないが、なぜ海外では奇異の目で見られるのだろうか?
◆ドーハの悲劇
11/23開催のカタール・ワールドカップ(W杯)グループステージ(E組)第1戦で、日本代表が2-1で強豪ドイツに打ち勝った。
日本ではこれを「ドーハの歓喜」とか「ドーハの奇跡」と呼んでいるが、これはもちろん、かつての「ドーハの悲劇」に対応する呼称だ。
1993年10月28日に、今回と同じカタールの首都・ドーハのアルアリ・スタジアムでサッカーの国際試合が行われた。
ここで日本代表はイラク代表と戦った。
1994年アメリカワールドカップ・アジア地区最終予選の最終節のこの試合では、第4戦終了時点で日本はグループ1位で、始めて本戦出場に王手をかけていた。
だが、合終了間際まで2-1でリードしていたのが、ロスタイムにイラクに同点ゴールを入れられて負け、一転して予選敗退してしまった。
あれから28年。
相手はイラクではなくドイツだったが、リベンジすることができた。
◆ドーハの歓喜
では今回、「歓喜」はともかく、なぜ「奇跡」なのか?
それは、最新のFIFA(国際サッカー連盟)のランキングが物語っている。
ドイツ:11位
日本 :24位
つまり、日本はFIFAランクでずっと格上の相手を破って大金星を獲得したのだ。
◆もう一つの「奇跡」
だが、海外のサッカーファンにとって、「奇跡」はそれだけではなかった。
カリファ国際競技場でドイツ対日本の試合終了後に、会場に散らばったゴミを片付ける日本人サポーターたちの姿があった。
これを見た海外のメディアは「彼らは今日の結果にふさわしい」などと報じている。
しかも、自国の試合だけでなく11/20日の開幕戦で、ホスト国のカタール対エクアドルの試合のときも、日本人ファンが試合終了後に掃除をしてくれたことがメディアで賞賛された。
英国の『BBC』は「ドイツ戦の勝利の大きさを思えば、夜通しで祝杯を挙げることもできただろうが、日本のファンは、どんな状況でも最高のマナーと習慣が根付いていることを示したのである」と報道した。
BBCは、2018年に大阪大学の社会学教授スコット・ノース氏に取材した際に、「“片付け”は日本人が“自分たちの生き方に誇りを示す方法”である」と語ったことを引用していた。
◆「カメラに写りたいから?」
前述の11/20の開幕戦で、日本人サポーターによるゴミ拾いの様子が拡散されたきっかけの一つとなったのが、中東バーレーン出身の動画クリエイターOmar Farooq氏によるInstagram投稿だった。
オマール氏は、この日ファンの一部に直接インタビューしていた。
ある日本人サポーターはゴミ拾いについて「Not For Camera(メディアのカメラに撮影されるためではありません)」と答えた。
このオマール氏がInstagramに投稿した下記の日本人サポーターのゴミ拾いの動画は、現在80万件のイイネがついている。
動画の中で、ある女性がオマール氏に対して「日本人はこういう時に絶対ゴミを残していかないの」と答えている。
オマール氏のようなイスラム教徒にとっても、このような行為は驚異的なものだったようだ。
これが、たとえばどこかの怪しい宗教団体が主導していたとすれば、関わり合いになりたくないというのが正直なところだ。
だが、彼らは率先してこのような行為を行っているのだ。
◆考え方の違い
海外の人々の中には、「あのような行動は写真に写りたいためのスタンドプレイのようなものではないか?」と思う人が一部にいるようだ。
そうだとすれば、なぜこのような発想が出てくるのか?
一つには、欧米などの国々では「自分の利益」を伴わない行為を行うことが非常に驚くべきことなのだろう。
欧米人のものの考え方には、その中心に「個」がある。
それに対して、比ゆ的に言うならば、日本人の中心には「和」がある。
別の言い方をすれば、こうも言えるだろう。
欧米:全体よりも自分
日本:自分よりも全体
だが、それをいうならば日本に限らず、アジアの他の国々でも同様だろう。
私は、個人的には、ドーハでドイツに勝ったことよりも、むしろこのようなサポーターたちの無私の行為を誇りに思うのだ。