この記事は17年前の2005/11/27に「探求三昧ブログ」で初出の記事を加筆訂正したもので、古代イスラエル「失われた十支族」の末裔ではないかともいわれる謎に包まれた古代氏族「秦氏(はたうじ)」の謎を追ったもの。
連載2回目
これは2回の連載で、昨日の(1)から最初に読むことをお奨めします。↓
今回は2回目として、秦氏が祀った(or関わった)神社仏閣について書いてみます。
日本人にとって親しみがある多くの神社が、じつは秦氏が関わっていたということがわかって、興味をもつ人がいるかもしれません。
広隆寺
まず最初に、太秦広隆寺(うずまさ・こうりゅうじ)です。
たしか中学校の修学旅行で行ったのと、2007/01/02の正月の京都聖地巡礼でも訪れました。
広隆寺は、推古天皇11年(603年)に建立されました。
四天王寺、法隆寺等と共に聖徳太子建立の日本七大寺の一つとされますが、日本書紀では、秦河勝が聖徳太子から仏像を賜わり、ご本尊として建立したとあります。
秦河勝は、当時の秦氏の長であり、聖徳太子のブレーン的存在でもありました。
お馴染み山岸凉子さんのコミック『日出処の天子』(ひいづるところのてんし)でも登場しますね。
この作品の連載が始まったのが1980年で、当時私は24歳で、山岸ファンの妹が持っていたのをちょっと読んでみて、山岸ワールドにハマって貪り読みました。
京都へ修学旅行に行くと、必ずといっていいほど、このお寺を訪れるのではないでしょうか。
なんといっても、あの美しい弥勒菩薩半跏思惟像(ミロクボサツはんかしいぞう)で有名ですね。
この仏像は、新羅様式で作られているとされています。
新羅といえば、それ以前に伽耶(かや)があったところです。
広隆寺はかつては太秦寺と呼ばれましたが、この太秦の一体には、秦氏が多く居住していました。
この太秦寺は、じつは景教の寺院だったという説があります。
景教というのは中国での呼称で、東方基督教の一派でした。
つまり、広隆寺というのはもともと仏教の寺ではなく、キリスト教の寺院だったというのです。
この説を最初に唱えたのは、東京文理科大学(現筑波大学)や早稲田大学の教授だった故佐伯好郎博士で、中国の景教の研究では世界的権威だった人です。
広隆寺が基督教寺院だったという説によれば、弥勒菩薩はじつはイエス・キリストだったということになります。
ちなみに、「騎馬民族征服王朝」説を発表した東京大学の故江上波夫博士は、佐伯氏の弟子にあたるそうです。
以前にどこかで書いたように、江上氏も、古代の日本に原始基督教が渡って来たということを認めていた人で、もしかしたら江上氏の説く「騎馬民族」も、じつは原始基督教をもたらした存在だと考えていたのかもしれません。
聖徳太子も、じつは隠れ景教徒だったという説があります。
「厩戸の皇子」と呼ばれたように、馬小屋の前で生まれたという伝説や、917年に書かれた「聖徳太子伝暦」という書で、新約聖書のイエス誕生物語とそっくりの記述があるというところを見ても、更に探求する価値があるかもしれません。
それから、弘法大師空海も隠れ景教徒だったという説もあります。
空海は入唐した際に景教を学び、また潅頂(キリスト教の洗礼)を受け、「遍照金剛」という洗礼名を受けたとも言われています。
実際に潅頂も含めて、真言密教の儀礼には景教から伝わったのではないかというような要素がいろいろあって、単なるトンデモ説で済ませない信憑性があると思います。
【注】空海が実際に景教徒だったとは考えていないが、これまでの長年の探求の結果として、真言密教に景教的要素が入り込んでいることは否定はできない。
宇佐八幡宮
次に、八幡総本宮とされる宇佐八幡宮と、全国の八幡神社です。
宇佐八幡宮の場所は、大分県宇佐市にあります。
全国4万社余りもある八幡神社の総本宮です。
八幡神というのは、一般的には、応神天皇の御神霊だとされています。
八幡宮は、古くは「やはたのかみ」と呼ばれていました。
前回紹介した『秦氏の研究』(大和岩雄著)によると、八幡神は朝鮮半島の祭祀に深くかかわっていて、八幡神は「秦王国の神」だとしています。
ここでいう秦王国とは、むかし九州北部(豊前)にあった、秦氏が住んでいた地域を指します。
大和氏によると、八幡神というのは、朝鮮半島にあった加羅という国から渡って来た秦氏が祀った神だということです。
ここで、「ヤハタ」のハタは秦氏のハタではないかという疑問が湧きますね。
ちなみに、この頃の日本で「からくに」と呼ばれていたのは唐のことではなく、韓国=加羅のことだったんです。
加羅は伽耶とも呼ばれますが、かつて朝鮮半島の東南端にあった小さな国でした。
じつは、天皇家の祖先も、伽耶から渡って来たという可能性がもっとも強いのではないかと、個人的には考えています。
応神天皇が万という単位の大勢の秦氏の集団を朝鮮半島から呼び寄せたというのも、天皇同じ国にいた人々であり、また天皇家と何らかのつながりがあったからこそ、呼んだのかもしれません。
そして、秦氏が応神天皇を八幡神として祀ったというのも、そのへんに理由があるのではないかと。
八幡信仰はシャーマニズム的な要素が非常に強いことで知られていますが、このことについては長くなるので、別の機会に書こうと思います。
ちなみに、旧約聖書に見られるように、古代イスラエルの信仰形態も多分にシャーマニックな部分があったと思っています。
八幡神については、イスラエルの別名であるヘブライ語の「イェフダ」が「ヤハダ」に転化したのだという説があります。
これについては、八幡信仰にイスラエル的な要素がほとんど見られないところから、たんなる語呂合わせで終わってしまっているところがあります。
もっとも、その可能性をまったく否定するものではありませんが。
鹿児島神宮
次に紹介するのが、鹿児島市隼人町にある鹿児島神宮です。
私が今年2005/08/12の九州聖地巡礼で訪れたところです。
九州で行く場所を決めるときに、マップダウジングで真っ先に出たのが、ここでした。
この神社は、「大隈正八幡宮」という別名でも呼ばれていて、やっぱり八幡神社なんですね。
ところが、いろいろ複雑な事情があったようで、現在では御祭神は、天津日高彦穗穗出見尊(アマツヒコホホデミノミコト)と豐玉比賣命(トヨタマヒメノミコト)になっています。
古事記の海幸・山幸の神話に登場する山幸彦とその妃のことです。
この両神の子供が神武天皇ですから、天皇家の祖先神です。
『秦氏の研究』によると、かつてはこの地に住んでいたのは、ほとんどが秦氏系氏族だったそうです。
北九州の秦王国の一部が鹿児島に移住してきたのかもしれません。
じつはこの鹿児島県というところは、古代イスラエルの聖地エルサレムの真東にあたるところ(緯度がほとんど等しい)なのですが、そういうことを意識して秦氏系の人々が移ってきたとしたら面白いのだけど、そういうことはあまりないかもしれません。
宇佐八幡宮も鹿児島神宮も、当初から祭祀を行っていたのは辛嶋氏といって、秦氏系の氏族です。
この氏族名にも「カラ(=加羅)」が含まれていますね。
【追記】エルサレムと鹿児島
上記の鹿児島神宮がエルサレムの真東にある件、その後に探求を続けて行ったところ、「たまたま」そうなったのではないかもしれないと思えてくる部分がある。
まずエルサレムの起点をどこにするかというと、かつての「神殿」があったところとすることに多くの人は異論が無いだろう。
現在のイスラム教の「岩のドーム」がある場所と鹿児島神宮の緯度経度を、Wikipediaのデータをもとに、比較してみる。
◎岩のドーム
北緯31.777878度 東経35.23544度
◎鹿児島神宮
北緯31度45分13.37秒 東経130度44分16.33秒
北緯31.753714度 東経130.73787度
鹿児島県霧島市隼人町内2496
◎2地点の距離差:
鹿児島神宮の方が…
緯度:0.024164度ほど南方に位置する。
ちなみに、緯度1度は約111km。
つまり、鹿児島神宮は岩のドームの約2.7km南方に位置する。
この程度の誤差は、当時の古代の技術水準からすれば精一杯で、正確さは十分すぎるといえるだろう。
古代イスラエルと古代日本の繋がりを探究したりすると、一歩間違えるとウヨウヨした人々とお近づきになってしまうので、十分すぎる位に気を付けている。
もし秦氏が、柳田国男氏が言うところの「イスラエルの古びた教え」を密かに信じていた人々ならば、そして東へ東へと進んで行った結果としてたどり着いたのが鹿児島ならば面白いのだが、そのことを断定するには、まだ長い探求の旅が必要だろう。
伏見稲荷大社
これまで何度か訪れ、2006/10/09には京都聖地巡礼の一環として参拝しました。
お稲荷さんとして親しまれている稲荷神社も、八幡さまに負けないくらい多いですね。
その数は、全国で32000社ほどあるとも言われています。
分社の数からいうと、日本最大級の神社です。
その総本社が、京都の伏見稲荷大社です。
稲荷大神は秦(はたの)伊呂巨(いろこ、または伊呂具(いろぐ))によって和銅四年(711)に鎮座したと伝えられています。
つまり秦氏が創建した神社です。
御祭神は宇迦之御霊神(ウカノミタマノカミ)で、穀物の神だとか、食物を司る神といわれます。
上代日本語で「ウケ」や「ウカ」は食物を意味する言葉でした。
伊勢神宮外宮の御祭神である豊受大神も、食物を司る神ですね。
じつは、古代ヘブライ語でも、食物を「ウケ」と言ったそうです。
これは偶然の一致でしょうか?
また、イナリの語源としては、INRI説があります。
キリストが十字架に磔にされたときに、その罪状札に書かれていた言葉が、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」を意味するラテン語(Iesus Nazarenus Rex Iudeorum)の略の「INRI」でした。
稲荷神のイナリは、この INRI が訛ったものだというのです。
ただ、これだけでは、やはり語呂合わせに終わってしまうかもしれません。
普通に考えれば、「いなり=稲+成り=イネナリ→イナリ」となったとするのが妥当でしょうね。
白山神社
白山神社も八幡神社や稲荷神社ほどではないにしても数が多く、全国で3000社ほどあると言われています。
その総本宮が、石川県白山市の白山比竎神社(しらやまひめじんじゃ)です。
御祭神は、菊理姫(白山比竎神)、伊弉諾尊(イザナギ)、伊弉冉尊(イザナミ)の三神です。
この白山信仰の本拠地が白山で、この山を開山した秦澄も秦氏でした。
以来、山岳修験の霊山として知られるようになりました。
この白山信仰のもとになっているものは、朝鮮半島から伝わった山岳信仰であり、これも秦氏が日本にもたらしたものだといわれています。
【注】この神社をなぜ入れているのか忘れたが、恐らく参拝したことはない。
白山神社は「諏訪-鹿島レイライン」とリンクしているが、この件に関して書いた論考の所在が不明になってしまって、あとで探すことにしたい。
松尾大社
ここも2007/01/02の京都聖地巡礼で訪れた。
京都・太秦にある松尾大社(まつのおたいしゃ)は、秦氏によって創建された秦氏の氏神でした。
全国の松尾神社の総本社です。
御祭神は、大山咋神(オオヤマクイノカミ)と市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)。
また、京都の加茂神社の御祭神も大山咋神と関係が深く、上賀茂神社・下加茂神社もまた秦氏がかかわっていたと言われています。
そして大山咋神はまた、全国の日吉神社(ひえじんじゃ)の祭神でもあり、その総本社である比叡山の日吉大社も、秦氏が創建にかかわっていたという説もあります。
その他
以上ですが、ここで紹介したのは、秦氏が祀った神社のごく一部です。
他にも、たとえば「金毘羅(こんぴら)さま」として親しまれている四国・香川県の金刀比羅宮(ことひらぐう)も、かつては「旗宮(はたのみや)」とも呼ばれるように、秦氏が関わっていたとも言われています。
こうして見て来たように、現代の日本でも親しまれている主要な神社が、じつは秦氏が祭祀した神社だったのです。
こういうことを書いていくと、秦氏についてまったく興味がない人でも、少しは親しみをもってくるかもしれません。