この記事は、17年前に『探求三昧ブログ』で掲載した記事を加筆訂正したもの。
謎に包まれた古代豪族「秦氏」(はたのうじ)について、原子キリスト教徒とか古代イスラエルの民の末裔などといわれるが、この謎に包まれた氏族の謎を2回にわたって探究してみた。
秦氏(はたのうじ)
古代豪族の秦氏について、ある人からコメントをもらったことをきっかけに、17年前に2回にわたって記事を書いたが、今日はその1回目を再掲する。
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というわけで、秦氏について書くことになりました。
この巨大な古代氏族について、簡単に書けと言われても、そうはいかないんですね。
あまりにも書くべきことが多すぎて、何から書き始めていいかと、途方に暮れてしまうんです。
で、いつまでたっても始まりそうにないんで、メモ書きの延長程度になってしまうかもしれませんが、思いつくままに、2回に分けて書きますね。
今月はちょっと仕事で忙しくて帰宅が遅いもので、平日は書いてる余裕がないかもしれず、間隔が空いてしまうかもしれませんが。
※この頃はまだSEとして働いていて、ブログはその合間に執筆していた。
秦氏とは?
…ということも知らない人もけっこういると思うので、簡単に。
本来は、秦氏は「はたのうじ」または「はたうじ」と読みます。
応神天皇の時代に朝鮮半島から大挙して渡来した、古代の豪族です。
その数、数万人とも言われています。
秦氏についてもっとも深く研究されていると思われる人の著作として、大和岩雄氏の『秦氏の研究』(大和書房)があります。
この本、定価8,000円もするんですが、私は神田神保町の古書店で入手しました。
それでも6000円ぐらいしたと思いますが、泣きそうになりながらも買いましたね。
大判600頁以上にわたる大著で、秦氏について深く探求するには絶対に避けて通れない本なので。
本オタクなので、こういうところでつい脱線してしまいます。^^;
※1993/08/01発行だが、まだ絶版にはなっていなく、Amazonでは高いが古書もある。
失われた十支族?
ここ数年、秦氏が話題になっているのは、古代の日本にユダヤ教、原始基督教、あるいは景教の儀礼や習慣を持ち込んだのではないかと考えられているからなんです。
ひいては、古代イスラエルの「失われた十部族(十支族)」の末裔ではないかとか。
私も数年前から秦氏に興味をもって、いろいろと調べてきましたが、秦氏が、日本にユダヤ=キリスト教的儀礼・習俗を持ち込んだという可能性は、非常に高いと考えています。
そして、彼ら(の一部)が、失われた十支族の末裔であるという可能性についても。
これについては、いずれ本を書きたいと思ってます。
それだけの情報は、この脳みその中にすでにインプットされてます。
あとは、それを整理してアウトプットするだけ。
こう書くと、「なんだ、アヤシイ日ユ同祖論か」と思う人もいるかもしれません。
たしかに、この分野では怪しい言説が多く飛び交っています。
たとえば、日本語とヘブライ語をカタカナで語呂合わせで比較して日本とユダヤは同じルーツだとか。
私はいみじくも物書きで、このテーマも膨大な時間と資料の読み込みを経た上で書いていて、そのような低レベルな説とは一線を画しているつもりです。
日本文化に大きな貢献
上記の『秦氏の研究』の帯を見ると「日本の文化・信仰・芸能・工芸・金属精錬などに深く関与した秦氏を論じた多角的総合的研究」とあります。
それだけ、古代の日本に大きな影響を与えた渡来氏族だったんですね。
それが現代の日本史上では、正当に評価されていない嫌いがあります。
もう一つには、どうもこの秦氏の一族というのは、自分たちはあんまり表に出ずに、「影で暗躍する」のが好きな人々だったみたいなんですね。
私もそういうところがあるから、そういう人たちは好きですね。
ところで、ひとつ確認しておきたいことがあります。
古代の氏族といっても、それは必ずしも血族関係にあったとは限らないということです。
特に秦氏のように、数万という単位で渡来してきた人々ですから、そのすべてが血がつながった一族だと考える方が無理がありますね。
じつは出身地も単一ではないという可能性も考えなければならないかもしれません。
たとえその中に古代イスラエルの民がいたとしても、それは秦氏と呼ばれた人々の中の一部だったのかもしれません。
ちなみに、私は『秦氏の研究』の著者(大和岩雄氏)に、かなり信頼を置いています。
日本古代史についての本質的な問題を扱った著作が多い。
純粋な学者ではないにしても、それに等しい情報量と判断力・見識を備えた人だと思います。
秦氏の末裔
こうして学校の授業的に続けていくと、眠くなってくる人もいるかもしれないので、適当に面白そうな逸話などを挿入しながら進めていくことにします(というか、そっちの方が多くなる?)。
秦氏の支族という人は、恐らく今の日本に何十万、何百万という単位でいると思うんですね。
多くの場合、そうとは知らずに生きているのでしょう。
たとえば、羽田孜(はた つとむ)前首相(1935年8月24日 - 2017年8月28日)もその一人のようです。
第80代内閣総理大臣を務めた方です。
羽田氏の本家には古代からの系図が残っていて、太祖が徐福の後代の秦始皇帝となっているそうです。
真偽の程は別にして、秦氏は秦から逃れてきた王族の末裔と称していたんですね。
ところで、私は羽田氏の顔を見ると、聖徳太子をモデルにしたという法隆寺の秘仏・救世(ぐぜ)観音菩薩像を思い出すんです。
特に羽田氏の顔から下半分が似ていると思うのだけど、下記の写真を見比べてみてください。
聖徳太子といえば、やはり渡来人だという説があります。
その聖徳太子のブレーン的存在だったのが、当時の秦氏の長であった秦河勝(はた の かわかつ)でした。
厩戸皇子(うまやとのみこ)と呼ばれるように、馬小屋の前で生まれたという皇族らしからぬ伝承と名前は、ナザレのイエスの影響を匂わせます。
そうだとしたら、その「入れ知恵」をしたのは秦河勝だったのではないかと想像したりします。
秦氏も聖徳太子も、同じ「十支族」の末裔だとしたら面白いのだけど、そんなことを言ってる人はさすがあまりいません。
ところで、こういう記事も見つけました。↓
イエスと聖徳太子
聖徳太子の伝説にキリスト教的要素が取り込まれているとすれば、その犯人は秦氏だったのかもしれません。
前記の『秦氏の研究』によると、大和氏は『古事記』の編纂に秦氏が加わっていたという説を出しています。
羽田前首相に話を戻すと、この人の父方の郷里が長野県だそうです。
関係ないけれど、『秦氏の研究』を書いた大和岩雄氏もまた長野の出身です。
私の父方は長野県の諏訪がルーツの士族ですが、じつは長野県にも秦氏の末裔がかなり入り込んでいたみたいなんですね。
ちなみに松本市の西に波田町というところがあって、ここも秦氏の末裔が住んでいたところではないかと考えています。
松本市には百瀬の苗字が多く見られて、私の父方の親戚もいるのですが、この町にも百瀬姓が多く、他の苗字から改姓した人がけっこういたみたいなんです。
だから、もしかしたらもしかして、うちの先祖も秦氏の末裔の血が入り込んでいる可能性はないかとか考えたりしています。
ものすごく低い可能性ではあるけれど。
ちょっと脱線しすぎかな?
今日はこのへんで。
【(2)に続く】